CDNと昔のハードウェアの話

・・・三カ月たって最初のプロトタイプができあがると、ブレイナードは旅に出た。


そして、49人のベンチャーキャピタリストに会って計画を売り込み、ようやくたった一人だけ引き受けてくれる人間が見つかったのです。


計画では100万ドルの資金を調達する予定だったが、実際には84万6000ドルしか手に入らなかった。


ぎりぎりの額だった。


ベンチャーキャピタリストは、ソフトウェア会社をどの程度に評価したらいいのかはっきりわからなかった。


そこで彼らはソフトウェアを避け、それに比べればなんとなく確実そうに見えるハードウェアに興味を持ちがちだったのです。


彼らは、誰か別の人間がどこか別なガレージで同じようなソフトウェアを少しばかり早く完成してしまうのではないか、あるいは少しばかり優れたソフトウェアを作るのではないかといつも心配していたのです。


現代にもこのような心配はきっとありますよね。


しかし、CDNはいち早く通信の安定を提案したのだと思います。

会社の設立者


ポール・ブレイナードは強引な人間だった。


「ああいった会社の設立者が汚いことをやるのは、よくあることさ。


ブレイナードもジョブズもゲイツも、みんな同じだよ。


ぼくはポールを父親のように尊敬していたし、ほかの技術者連中も、設立当初に入社した連中も同じだと思う。


ぼくはあの当時まだ29歳だったし、ほかの仲間はぼくより若いくらいだった。


そのうちぼくたちはポールのことを、絶対に満足しない要求の厳しい父親だと考えるようになっていったんだ。


これは家庭騒動みたいなもので、いまになってみるとなぜあんなにつまらないことで大騒ぎしたのかなと思う。


『いったいなんだって、(彼の考えを)あれほど気にしたんだろう』と、いつも不思議に思うよ」


と、5人の技術者の一人、ジェレミー・ジェーチは言ったそうです。


ブレイナードの金は、6カ月しかもたなかった。


だが、それだけあればアプリケーションのプロトタイプを作り、ビジネスプランを書くには充分だった。


現代の話に戻りますが、CDNのビジネスプランも気になるところですね。

エンジニアたち

・・・ブレイナードはこの仕事に自分の時間と10万ドルを差し出し、5人のエンジニアたちはエイテックス時代の半分の給料で働くことに同意してくれたのでした。


アルダスは当初、共同経営でいこうということになっていたが、例によって5人の技術者たちは組織の雑事にはあまり関心がなかった。


だがある日、裁判所に集まって法人設立の書類に署名するときになって、彼らの態度は変化した。


5人はそのとき、自分たちの割り当てが1人2万7000株しかないのに、ブレイナードが100万株も取っていることがわかったのです。


つまり、ブレイナードが株式の九五パーセントを取り、残りの5人はそれぞれ1パーセントの株しかもらえないということです。


そこでテッキーたちはためらい、署名を拒否したのです。


結局、彼らの取り分を倍にすることで話はまとまった。


こうしてブレイナードは10万ドルの出資で、アルダスの90パーセントを所有することになったのです。


・・・このように昔もCDNと同様に様々な出来事があったのですね。

CDNができるずっと昔の話

・・・力のある設立者が興した会社では、権力は創業者を揺さぶった人間に移っていく。


そして多くの会社では、最終的にやり手のマーケッターたちが出現し、開発者たちの地位が低下することになる・デスクトップ・パブリッシングを発明し、マッキントッシュにとって圧倒的魅力を持つソフトウェアとなった「ページメーカー」を開発したアルダス社にも、同じことが起こった。


アルダスは、ミニコンピュータをベースにした雑誌・新聞用出版システムのメーカーであるエイテックス社を辞めた、6人の人間によって設立された会社だ。


エイテックスはワシントン州レッドモンドに支社があり、そこではパーソナルコンピュータをワークステーションとして自社のシステムに組み込む作業を行っていました。


マサチューセッツに本社を置くエイテックスがワシントン州の支社を閉鎖する決定を下したとき、支社長のポール・ブレイナードは5人の技術者とともに新しい会社を設立することにしました。


そして彼らは、やがて「デスクトップ・パブリッシング」と呼ばれることになる技術の開発にとりかかったのです。


通信のCDNがうまれる遥か昔の話でした。

はじめまして


今日からCDNやその他通信の歴史についてのブログを開設しました。

よろしくお願いします。


ビジブル・スピーチというのは、日本では視話法と訳していますが、アルファベットに似た三十個の符号があって、それぞれ発音するときのくちびるや舌の位置、息の出し方、のどやあごの動かし方などをあらわしています。


これをてきとうに組みあわせると、正しい発音のしかたが、目からはっきり理解できるのです。


この符号は、正しい発音や話術を教えるばかりでなく、つんぼやおしのように、耳のきこえない人にも、声の出し方を教えるのに使うことができます。


父メルビル・ベルは、このビジブル・スピーチを使って、ろうあ教育に力をつくし、ひじょうな成果をあげたので、ベルの名は、ろうあ教育の第一人者として、ひろく世界に知られていたのです。


こんなわけで、ベルの家は代々ことばや声の研究を職業としてきた家がらでした。


ですから、グレアム・ベルやそのふたりの兄弟も、小さいときから祖父や父の仕事を見聞きして、この方面の学問につよい興味をもちました。


また、ベルの母は音楽にすぐれた才能をもっており、兄弟たちは母からピアノを教わりました。


グレアムは、母のこのみをうけついで、音楽がたいへんすきになり、ピアノのほかにもいろいろな楽器をひきこなすようになりました。


研究心のつよいかれは、また楽器がどんな概遙になっているか、どんなふうにして音を出すかといった科学の問題にも頭をつっこみました。


「小さいときから、声やことばに興味をもったこと、音楽がたいへんすきで、その面からも声や音の科学を研究するようになったこと」この二つが、幸運にもわたしの電話の発明を生みだす土台となったのです。


とのちになってベルは語っています。